大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和58年(ク)103号 決定 1984年7月06日

抗告人

甲野太郎

右代理人

石井芳光

林浩二

主文

本件抗告を却下する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

抗告理由について

所論は、協議上の離婚をした際に長女の親権者とされなかつた同女の父である抗告人に同女と面接交渉させることは、同女の福祉に適合しないとして面接交渉を認めなかつた原決定は、憲法一三条に違反すると主張するが、その実質は、家庭裁判所の審判事項とされてしる子の監護に関する処分について定める民法七六六条一項又は二項の解釈適用の誤りをいうものにすぎず、民訴法四一九条ノ二所定の場合にあたらないと認められるから、本件抗告を不適法として却下し、抗告費用は抗告人に負担させることとし、主文のとおり決定する。

(大橋進 木下忠良 鹽野宜慶 牧圭次 島谷六郎)

抗告代理人石井芳光、同林浩二の抗告理由

原即時抗告審裁判所は、原審判(長野家庭裁判所諏訪支部昭和五七年(家)第三七四号面接交渉申立事件の昭和五七年一二月一五日付審判)のいう理由をほぼ認めて、「現段階における抗告人の面接交渉権の行使がA子の福祉に適合しないという原審判の認定と判断は正当である」と、本件抗告を棄却する決定をした。

しかし、原決定には次のとおり憲法に明白に違背する事由がある。

一、面接交渉権と憲法一三条

(一) 親権者でない親がその子と面接する権利は、親子という身分関係から当然に認められる自然権であり、個人の尊厳を尊重する憲法一三条の幸福追求権に含まれている。

(二) 親子の面接はお互いにとつて社会生活をする上で必要不可欠である。

子の立場からみれば、成長の過程で監護されていない親とも定期的に面会することによつて、人格の健全な発展が期待できる。真実の親と定期的に面会し、交流を深めていくことにより、自分のおかれた不遇の事情を理解し、精神的にも成長していくのである。

幼い頃両親が離婚し片親と離された子にとつて、両親の離婚という事実や実の親ではない者から監護されてはいるが自分だけは他の兄弟とは違うなどの事実が、子の人格的な成長にマイナスの影響を与えたり、社会生活上にも支障をきたすこともある。

したがつて、子が親権者でない親と定期的に面会することは、子の円満な人格の発展に不可欠の要素である。

(三) このように、親子の面接交渉権はお互いにとつて憲法一三条で保障されている権利であり、審判で全面的に否定することはできない。

二、面接交渉権の制限と憲法一三条の「公共の福祉」

(一) 憲法一三条が保障する権利でも、公共の福祉のために必要があれば、相当の制限を受ける。面接交渉権についてもこのことは認められよう。

(二) しかし、「公共の福祉」による制限は、「国民の基本的人権を保障することが、国民の人格を発展させ、幸福追求につながる」という憲法の精神から考えなければならない。

国民の基本的人権の保障がむしろ他の国民の重大な基本的人権を侵害し、その国民の基本的人権がより重要な権利である場合にだけ基本的人権の制限が許される。「公共の福祉」による制限はこのように理解することが、個人の尊厳の基本的人権の尊重を保障する憲法の趣旨に合致する。

(三) 面接交渉権もこのことは同じである。面接交渉権を保障することが、他の国民のより重要な基本的人権を侵害する場合だけ、面接交渉権に対して公権力が制限をしてもよいのである。

三、面接交渉権の全面的否定と原決定の違憲性

このような憲法の原理を前提にすれば、原決定の違憲性はきわめて明白である。

(一) 原決定は、事件本人であるA子の福祉に反するので、面接交渉権の行使を許さない原審判は正当であるという。

しかし、面接交渉権は親子にとつて幸福追求のための重要な基本的人権である。したがつて、公権力が公共の福祉を理由として権利行使を全面的に否定することは許されない。

(二) 面接交渉権の制限は、面接交渉の時期・場所・立会人などの制約を加えることができるだけである。むしろ、公権力には、面接交渉権の行使が円満に行われるように監視する任務がある。公権力が面接交渉権を全面的に否定するのは、公権力による権利侵害として憲法に違反する。

(三) しかし、面接交渉権といつても、一方の親の権利や子の権利を侵害することはできないので、その場合には、権利を侵害しないように条件付での制限もしかたがない。しかし、この場合でも、権利自体を全面的に否定することはできない。面会の時期・場所・立会人などに制限を設けることができるだけである。

(四) 原決定は、子であるA子が面会を希望していないとみた原審判の事実認定には疑いがあるといいながら、現段階での面接交渉権の行使を許さなかつた。したがつて、原決定が面接交渉権を全面的に否定したことは明らかに憲法に違反する。

もつとも、原決定は「A子が自己の意思を明確に表明することができる時期まで面接交渉は差し控えるべきである」といつて、面接交渉を一時的に制限する趣旨を示した。しかし、たとえ一時的でも、面接交渉権を否定したことには変わりがない。かえつて、一時的な面接交渉権の否定の繰返しが、親子間の愛情の交流機会を永久に失わせてしまい、それでは、親子のきずなを断ち切る結果となるであろう。

(五) 原決定が面接交渉権を認めなかつた理由は、結局のところ、「父とA子が面接すると、A子の保護環境が再び落ちつかなくなる危険がある」、また、「この危険をおかしてまで面接を認めるには、父と子の基本的信頼関係と愛情の交流があつて、面接による子の福祉の程度が大きい場合であり、本件ではそのような父と子の結びつきが認められない」ということに要約できる。

まず、前段の理由を検討してみよう。

本件では、原決定のいうようなA子の保護環境が面接で落ちつかなくなる事態は考えられない。さらに、将来、A子が実父のことで悩んだりする場合、そのときになつて、はじめて面接を認めても、かえつてA子の生活は混乱するばかりである。早くから親子が面接して、次第に愛情を深めるためにこそ定期的な面接交渉が必要なのである。

面接交渉権の重要性を考えれば、この理由で憲法上の権利を制限する合理的な理由にはとうていならない。

原審判は、A子が父を畏怖しており、父との面接を希望していないから本件では父と子の結びつきが認められないという。しかし、原決定は、さすがに、このような事実認定には疑問を投げたが、父と子の基本的信頼関係や愛情の交流は認められないという。

(六) 親子の基本的信頼関係や愛情の交流がなければ面接を認める要件にあてはまらないという原決定には、憲法上の権利としての面接交渉権に対する基本的な認識が足りない。

面接交渉権は親子のお互いにとつて、社会生活上不可欠の基本的人権であり、とくに子にとつては円満な人格形成に重要な意義をもつている。不幸な事態や境遇によつてはじめは親子の愛情や信頼に欠けるところがあつても、親と子が定期的に面会を重ねることで交流を深めていき、そのなかで親子の信頼関係を形成し、愛情の交流を醸成していくことに意味がある。

本件で、原決定が父とA子との間に信頼関係や愛情の交流がないというのであれば、それははなはだしい事実誤認であるが、信頼関係がないから面接を許さないという論理は、憲法で保障する面接交渉権自体を否定する考えであり、それが憲法に違反することが明白である。

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